カメラ | 滝桜や三春町をはじめ裏磐梯、福島県の風景写真 Big244 Camera Work | Page 163

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夕日撮影 三春町お城山から



4月3日に撮影
昔、舞鶴城があった三春町お城山
この城の御姫様 愛姫は仙台の伊達正宗の妻

■愛姫(めごひめ)
愛姫(よしひめ/めごひめ、永禄11年(1568年) – 承応2年1月24日1653年2月21日))は、戦国時代後期から江戸時代前期の女性。田村清顕とその正室於北(相馬顕胤の娘)の一人娘で、伊達政宗の正室。通称は田村御前。院号は陽徳院。

天正7年(1579年)に数え年12歳で伊達政宗の元に嫁ぐ。ところが、自分の暗殺未遂事件には田村氏からの内通者の関与があったと疑った政宗によって、彼女の乳母は殺害される。他に多くの愛姫付きの侍女たちが死罪にされたため、一時夫婦仲が悪くなったと伝えられている。しかしその後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京都聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には五郎八姫松平忠輝室)を出産。それから忠宗仙台藩2代藩主)・宗綱竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。

田村家には愛姫以外の子女がいなかったため、政宗との結婚の際、2人の次男を田村家の養子に迎えるという話がついていたが、次男の宗綱は16歳で夭折。後の竹松丸も夭折したため、田村氏の復興は2人の孫で忠宗の三男宗良の代まで待つことになった。

聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京都の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われる。

寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去した後、瑞巌寺雲居禅師の 元で仏門に入り、陽徳院と称した。政宗の17回忌前には彼女の命により、木造の政宗像が制作されたが、これは彼の面影を伝える史料として貴重なものであ る。政宗の肖像画や像は、政宗の遺言に従って両目を入れて作られることになっていたが、この瑞巌寺の木像は「夫の本当の姿を残しておきたい」という愛姫の 思いから、独眼となっている。

承応2年(1653年)1月24日に86歳で死去する。24日は政宗の月命日と同じであった。

墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る 言葉を残している。また、瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりの女性だったようである。一時期はキリシタンでもあったという。かつては青葉神社の境内にある愛姫神社に祀られていたが、現在は本殿に合祀されている。

昭和49年(1974年)の瑞鳳殿発掘調査により、夫・政宗の血液型はB型、息子・忠宗はA型であることが判明しているため、愛姫の血液型はA型かAB型であろうと思われる。

夕日と桜 / 三春町お城山



2011.03.11 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)から25日が経過
昨日は三春町滝桜を撮影後にお城山に

三春町の観光名所 滝桜



東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)から21日そして今日から4月。
例年通りであれば、これからの桜シーズンは滝桜を始め三春町内の桜を見にたくさんの観光客で賑わいます。

多くの方に三春町に足を運んでいただき桜を見ていただきたいと思います。
しかし、今年は風評被害で観光客はあまり訪れないでしょう。

今年は、みなさんにインターネット通じて三春の桜たちを見ていただこうと思い、近日中に専用ページを作成します。
よろしくお願いします。

写真は三春町の王子神社(おうしじんじゃ)撮影した町内の桜

東日本大震災から20日

2011.03.11から二十日が過ぎた。
先週は栃木県にある伊王野にお邪魔した。



道の駅 東山道伊王野

お彼岸

東北関東大震災から10日目の三春町。



18日 彼岸入り
24日 彼岸明け

必ず立ち直る風景



GANREFでは「必ず立ち直る風景」として被害にあわれた所の以前の写真がアップされています。

猪苗代湖 志田浜 白鳥 #02



猪苗代湖 志田浜 白鳥 #01
のつづき

会津駒ヶ岳の夕焼け



夕日に向かってを撮影した日にたかつえスキー場から

夕日に向かって



夕日に向かってジャンプ
ライダーはMOSSスノーボード 松坂聖一

安達太良山



雪化粧した安達太良山