4月17日 6分咲き
滝桜
カメラ Canon EOS 7D
ファームウェア Firmware Version 1.2.3
撮影日時 2011/04/17 12:28:37
撮影モード 絞り優先AE
Tv(シャッター速度) 1/125
Av(絞り数値) 10.0
測光方式 評価測光
露出補正 -2/3
ISO感度 100
レンズ EF70-200mm f/4L IS USM
焦点距離 89.0mm
ホワイトバランス 太陽光
Category: 三春町
4月17日 滝桜
4月17日 三春歴史民俗資料館前の桜
三春町の歴史民俗資料館の桜
4月17日現在 満開
カメラ Canon EOS 7D
撮影日時 2011/04/17 11:39:09
撮影モード 絞り優先AE
Tv(シャッター速度) 1/320
Av(絞り数値) 8.0
測光方式 評価測光
ISO感度 100
レンズ EF70-200mm f/4L IS USM
焦点距離 200.0mm
ホワイトバランス 太陽光
4月17日 七草木の桜
桜は咲いていないが、ロケーションは最高の場所にある四方から撮影可能。
ここは私の実家の近く。来週末が楽しみ
■七草木の七草木桜
三春の七草木という土地の墓地に大きく枝を広げた1本の桜樹齢350年エド彼岸桜
カメラ Canon EOS 7D
撮影日時 2011/04/17 11:05:36
作成者 big244
撮影モード 絞り優先AE
Tv(シャッター速度) 1/320
Av(絞り数値) 8.0
測光方式 評価測光
ISO感度 100
レンズ EF70-200mm f/4L IS USM
焦点距離 75.0mm
ホワイトバランス 太陽光
4月17日 雪村桜
4月17日
雪村庵 雪村桜
8分咲き
カメラ Canon EOS 7D
撮影日時 2011/04/17 10:45:50
撮影モード マニュアル露出
Tv(シャッター速度) 1/400
Av(絞り数値) 8.0
測光方式 評価測光
ISO感度 100
レンズ EF70-200mm f/4L IS USM
焦点距離 70.0mm
ホワイトバランス 太陽光
建福寺の枝垂れ桜 / 郡山市西田町
樹齢250年の旧三春町藩にある建福寺の枝垂れ桜。
詳しくはこちらから
http://big244.com/takisakura
■建福寺
当山は敕謚大光禅師覆庵宗己大和尚を歓請開山に頂き、開基は、慈雲意公首座和尚である。
開創は定かではないが東北横断自動車道遺跡調査報告15(木村舘跡)によると、天正11年木村領主木村越中守が滅亡後、三春領家臣橋本刑部がこの地を治めた。その時、人心を治めるため福聚寺より首座和尚の慈雲意公和尚が錫を止めたのであろうと考えられる。
元禄三年、二世中興是心悟公首座和尚が、東西七軒南北四軒三尺の本堂を建てた。
が、幾星霜外部は傷み壊れ、内は塵だらけとなり百三十年経った、文政十年、五世再中興大縁宗滴和尚により現在の本堂が造られた。平成十五年本堂の天井、壁、外観の一部を改修した。現住職は十六世宗信正孝和尚である。
建福寺ホームページより
臨済宗 妙心寺派 法輪山 建福寺
〒963-0914
福島県郡山市西田町木村字寺ノ前14
TEL.024-972-2911/FAX.024-972-2143
雪村桜 郡山市西田町/雪村庵
2011年4月13日 AM8:30頃撮影
詳細画像はこちらから
http://big244.com/takisakura
[カメラ] Canon EOS 7D
[撮影日時] 2011/04/14 08:20:23
[フラッシュ使用] いいえ
[焦点距離] 70.0 mm
[シャッタースピード] 1/100 秒
[ISO感度] 100
[絞り] F8.0
[使用ソフトウェア名] Adobe Photoshop CS3 Windows
UPDATE
ヘッダーのバックグラウンドイメージ変更。
『がんばろう 三春町!がんばろう ふくしま! がんばろう 日本!』
風評にも負けず、滝桜を代表に三春の桜は今年もきれいな桜の花を咲かせてくれます。
皆様のご来場をお待ちしております。
夕日撮影 三春町お城山から
4月3日に撮影
昔、舞鶴城があった三春町お城山
この城の御姫様 愛姫は仙台の伊達正宗の妻
■愛姫(めごひめ)
愛姫(よしひめ/めごひめ、永禄11年(1568年) – 承応2年1月24日(1653年2月21日))は、戦国時代後期から江戸時代前期の女性。田村清顕とその正室於北(相馬顕胤の娘)の一人娘で、伊達政宗の正室。通称は田村御前。院号は陽徳院。
天正7年(1579年)に数え年12歳で伊達政宗の元に嫁ぐ。ところが、自分の暗殺未遂事件には田村氏からの内通者の関与があったと疑った政宗によって、彼女の乳母は殺害される。他に多くの愛姫付きの侍女たちが死罪にされたため、一時夫婦仲が悪くなったと伝えられている。しかしその後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京都聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には五郎八姫(松平忠輝室)を出産。それから忠宗(仙台藩2代藩主)・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。
田村家には愛姫以外の子女がいなかったため、政宗との結婚の際、2人の次男を田村家の養子に迎えるという話がついていたが、次男の宗綱は16歳で夭折。後の竹松丸も夭折したため、田村氏の復興は2人の孫で忠宗の三男宗良の代まで待つことになった。
聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京都の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われる。
寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去した後、瑞巌寺の雲居禅師の 元で仏門に入り、陽徳院と称した。政宗の17回忌前には彼女の命により、木造の政宗像が制作されたが、これは彼の面影を伝える史料として貴重なものであ る。政宗の肖像画や像は、政宗の遺言に従って両目を入れて作られることになっていたが、この瑞巌寺の木像は「夫の本当の姿を残しておきたい」という愛姫の 思いから、独眼となっている。
承応2年(1653年)1月24日に86歳で死去する。24日は政宗の月命日と同じであった。
墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る 言葉を残している。また、瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりの女性だったようである。一時期はキリシタンでもあったという。かつては青葉神社の境内にある愛姫神社に祀られていたが、現在は本殿に合祀されている。
昭和49年(1974年)の瑞鳳殿発掘調査により、夫・政宗の血液型はB型、息子・忠宗はA型であることが判明しているため、愛姫の血液型はA型かAB型であろうと思われる。